長崎 高島秋帆を慮ろう!
長崎 高島秋帆を慮ろう!
こんにちは。
今回は令和3年、2月14日から放送開始されたNHKさんの大河ドラマ「晴天を衝け」でいきなり登場した、長崎出身の人物 高島秋帆 に関係ある場所に赴き、在崎してた頃の鷹島の気持ち、考えを慮(おもんぱか)ろう! というテーマでご紹介致します。
では、高島についてザックリ。
「高島四郎太夫茂敦」
・1798(寛政10年)生まれ 月日は不明
・1808(文化5年) フェートン号事件勃発
・1814(文化11年)出島備場受持ち 就任
・1823(文政6年) 出島で西洋砲術を学ぶ
・1843(天保14年)江戸・伝馬町へ移送
※大河ドラマ初登場はこの時
・1846(弘化3年)水野忠邦により保釈、砲術師範就任
・1866(慶応2年)1月4日 江戸、東片町で死去
とまあこんな感じです。
詳しくは他のサイトに任せて、我々は早速、高島に関係ある場所へ参りましょう!
先ずはこちらから!!
<雨声楼>
道路を渡り正面の坂道へ。
ここから「茂木街道」。薩摩藩の志士達も通った道です。石垣が素晴らしいですね。
入口。頭上に案内板が教えてくれます。
こちらが「高島別邸 雨声楼(うせいろう)」。因みに旧漢字は"雨聲楼"です。
この右下に砲術の試験場や標的に使われた石、当時の祠があります。あまり状態は良くありません。
左側にある石倉、以前は資料が展示されてましたが現在は封鎖。
裏門。ここから下っていけば丸山に行けます。
建物はこんな感じでした。
明治には料亭になったそうです。
芥川龍之介が出入りし、お気に入りの芸者さんがいた…と記録が残ってます。
建物は1945年 昭和20年 8月9日11:02 投下の原爆による爆風で倒壊。現在に至ります。
詳しくは他のサイトや雑誌にお任せして次へ!
<高島家墓地>
場所は思案橋入口から渡ります。鍛冶市商店街を通って真っ直ぐ進むだけです。
の前に思案橋のゲートを見上げると、何やらモニュメントが。
なんと一番右が高島です。本石灰町(もとしっくいまち)の皆さんが大切にされているのが分かると思います。
思案橋通りの街灯にも高島のお姿が。説明プレート、他の人物もいるので探してみて下さい。
では先程の横断歩道を渡り、鍛冶市通りを通り抜けて「寺町」へ。
「晧臺寺(こうたいじ)」さんが見えてきます。
現在、晧臺寺さんは1909年、明治42年以来改修工事中。
でも大仏、門を守る仏像は見学可能。迫力ありますよ。
高島の墓石は境内の右側、「幣振坂(へいふりざか)」から登ります。
この坂、多少の覚悟が必要です笑
途中にはシーボルトの妻子、楠本瀧さん・イネさんのお墓もあります。休憩がてら合掌。
だいぶ登って参いりました。この案内板から左へ。
ココの上に高島の墓石があります。
こちらです。
が、残念ながらここはあくまで高島家のお墓。秋帆は墓碑のみ。遺骨は御江戸、東京 文京区 本郷東片町 の「大円寺」に納骨。お近くの方は是非!
ご先祖か、有志の方か、お寺の方かは存じませんが、常に清掃しておられているみたです。
因みに同地にはあの「近藤長次郎」、写真家「上野彦馬」の墓、そして龍馬像で有名な風頭公園へ行けますよ!
お時間、体力のある方はどうぞ。
では次へ。
<高島邸跡>
目安としては”旧長崎県庁”の近くです。
実はここが「高島本邸」があった場所です。
裁判所のロビーに高島邸の発掘物が展示されています。写真中央は日本最古、木製チェスのコマです。
他に陶器やガラス品も展示されてるんですが、高島と言ったら砲術。写真は砲弾の鋳型。
平成2年12月に発掘調査開始。その時のモノが展示されています。
見学可能時間は平日 月~金 8:30~17:00
高島邸はなんと1838年 天保9年4月4日の大火により焼失。
立て直しはせず、先の「雨聲宿」にそのまま移り住んだそうです。
因みに長崎市 小川町の出火元には神社が建てられてますよ。
延焼の度合いを記した地図もあります。
路面電車、上町 電停の近くです。裁判所からも歩いて行ける距離なので、お時間のある方はどうぞ。
なお、長崎家庭裁判所から外に出て、左を向くと旧長崎県庁跡地。
当時は「長崎奉行所西役所」(後に海軍伝習所)
その奥には「出島」
その先は「長崎港」が見えてたんでしょう。
11歳当時、フェートン号事件。
それが原因でお奉行様切腹。
騒然とする長崎。
高島の衝撃は如何程であったか⁉
何を覚悟したのか⁉
慮って下さい。
余談ですが裁判所の近くには坂本龍馬、海援隊の有力スポンサーであった小曾根乾堂の小曾根邸跡。
忠臣蔵 討ち入りのモデルになった深堀事件の発端場所、「大音寺坂」があります。
因みに出島
内にある復元されたカピタン部屋。時代的には高島が出入りしていた頃と合致してます。
江戸時代の出島表門再現模型。高島の気分が想像できますね。
出島からの眺望。奉行所、その奥に高島邸(中央の木に囲まれた白い建物)が見えます。
この距離だったんですねぇ。
高島がこの距離をどんな思いで行き来していたのか慮って下さい。
色々調べると、正直詳しい事は残っていないとの事。
生まれ年は分かったのですが、詳しい月日は分からないそうです。
こうやって忘却の彼方へ消えていくのですね。
つか、正直わたくしを始め、多くの長崎人も高島について知らないんではないでしょうか。
大河での活躍次第では、もう少し有名になる!
…カモしれません。
何か新しく情報が出ましたら追記したいと思います。
今回も見てくれた皆さん、ありがとうございました。
来崎された際はぜひ見回ってみて下さい!
了