長崎 大浦国際墓地 へ行ってみよう!
長崎 大浦国際墓地 へ行ってみよう!
Re 18/12/27
【データ】
石橋電停出発
歩数 580歩
時間 5分
おんちゃス。
今回は長崎にある3つの国際墓地で、一番古くからある『大浦国際墓地』に行ってみましょう!
この墓地は長崎大御所観光地、グラバー園・大浦天主堂の先にあるんですが、なかなかココまでくる方は少ないです。
なかなかの穴場かなと。
このページから入られた方は
へ戻ってみて下さい。大浦天主堂下からの道筋を写真で紹介しています。
墓地には英国、米国、伊太利亜、阿蘭陀の方々が眠っておられるそうです。
主に遥か欧州から出島まで来た船員が中心らしいんですが、著名なオペラ歌手や歴史的な事件に巻き込まれた犠牲者の墓もありますんで興味深々、気になりますね。
なので前置きはこの位にして早速見に行きましょう!
チンチン電車の終点、石橋電停からスタートします!!
石橋電停から兎に角奥へ奥へと進むだけです。
縦向きの信号が目ヤスです。お店の横を右へ!
後はこの道を進。
着きました。大浦国際墓地です。
案内板はこんな感じになってます。
では入ってみましょう。引っ掛けている紐を外します。
基本5段階の層になってる感じです。この日は雨が降ったり止んだりだったんで墓石と緑が雨に映えてました!
先ずは一番下の墓石をいくつか見てみましょう。
…。建てられてからおよそ150年以上。もうボロボロになってます。
そしてここに眠るのがヨーロッパでも有名だったイタリア人オペラ歌手、アゴスティノ・パンニョニ。今でもこうして参ってる方がいるんスね。
上の段へ。
この柵と墓石の感じからして大物だと思います。
この辺に乱立されてる墓石はもう名前さえ分かりません。
一番奥の墓石も崩れかけてます。何とか針金で応急手当って感じっス。
ではもう一段上へ。
巨大な墓石の文字盤。砂岩ですね。比較的キレイに見えますが…
横から見ると、もうそんなに長く持たない事が分かります。
割れた墓石から草が生えたのか、草が墓石を割って生えたのか。
この辺は上下に乱立してますが多くの墓石がボロボロになってます。
そしてこの墓が幕末に起こったかの有名な「イカルス号事件」の犠牲者、ロバート・フォード氏とジョン・ハッチング氏の墓。海援隊に容疑が掛けられましたが、真犯人は筑前藩の金子才吉。その節はご迷惑をお掛けしました。
では奥へ行ってみましょう。
ここはまだ空きがあります。
アメリカ人水兵の墓。
その下にある墓はもう分かりません。因みにここは巨大な蜘蛛が巣を張ってるんで気を付けて下さいw
墓の敷地下には何やら神仏的なモノがあります。
木の生命力って凄いなぁ…と思いきや、こういうデザインらしいです。木が折った訳じゃあありませんw
日本人ながら読む事が出来ないですw
では戻ります。竹藪の上、墓石と同じく崩れていくんスね。
元の階段へ。この「2 エイプリル 1869」ってのは生まれた年でしょう。
更に上へ。枯れた木が折れて下に落ちてますね。コレは最近だと思われます。
頂上。奥はジャパニーズの墓ですが、直接行けません。完全に分離されてます。
今は住宅地ですが、当時は段々畑が広がってた…とイメージ出来ますね。
雨の中黙って立ってるとプッチーニ先生の名曲 un bel di vedremo (ウン ベル ディ ヴェドゥレモ)「ある晴れた日に」が聞こえてきた様な気がしましたw
下の写真はほぼ一年前の写真です。良く見ると若干変わってたりします。
まぁ、一年ではそこまでハッキリと分からないですが、大浦国際墓地が作られたのは1861年 文久元年 の江戸時代。
今から約160年前って事になります。
当時は立派な墓石が並んでいたと思いますが、150年以上も経つと石でも劣化するんですね。
特に多くの墓石が砂岩だったので、尚更劣化は早かったんだと思います。
長崎市が管理してるので十分把握はしてるハズなんですが、針金で補助したりタールで補修したりが精一杯。
恐らくもうどうしようもないといった感じなんでしょう。
大浦国際墓地は作られてから27年後の1888年 明治21年に、手狭になったのと衛生面(恐らく土葬)を考慮して閉鎖。
その後、国際墓地は坂本や稲佐に場所を移して行きます。。
見て頂いた皆さん、ありがとうございました。
大浦国際墓地はこのままほっとくと、あと数年で手の施し様が無くなると思います。
なので来崎した折には、訳が分からなくなる前に一度は見に行かれた方が宜しいかと思います。
あと意外と桜もキレイなんで、春になったら追記します!
その時にはまた見に来て下さいw
松浩G